昭和48年09月19日 朝の御理解
御神訓 一、「家柄人筋を攻むるより互いに人情柄を攻めよ。」
その前に縁談に相性を攻めて見あわすより真の心を見あわせよとあります。是は縁談の事に重きを置いての事であるとの事ですね。結婚によって家と家とが結ばれる訳ですが、それにあちらは家柄が良いとか悪いとか、あすこは筋が悪いと此処辺では言いますね、筋が悪いとか。次々と例えば病気が続くと言った様なね、人筋がわるい、そう言う事を言うよりもお互いに人情柄を攻めて行こう、是は結婚に関わらずお互いに一つ愈々信心させて頂くならば、誠の心誠の心とは信心(真心)の真と書きます。
心に於いても人情柄を攻めよと仰る。人情柄を攻めると言う事はどう言う事だろうか、私は今日大変まあー教団の中でも偉いと言うておられる先生が、大きな下駄、真四角な重箱のごたる下駄を履いとんなさる、そうしてもう余り大きくてキチットした下駄じゃけん歩きにくうありなさろう、歩きにくいと言う様な所を頂いた。どげな事だろうかとこう思わして頂いた、今日の御神訓からです人情柄を改めよ、人情柄とは私は此処でどう言う様な事かと言うとですね。
家はあそこ辺とは家柄が違う、等と言った様な事ではなくてね、真の心所謂信心の心。人情柄と言うのは私は今日はおかげに繋る、おかげの頂けれる人情柄と言うものに、ならなければいけないと。金光様の御信心を頂いておけば。ならおかげの頂けれる人情柄というのはね、親切であり寛大であると言う事だと思うですね、非常に親切だけれども心が狭いと言う人がありますよね、寛大でないと言う人が、だから私は信心によってです、愈々人情柄を改めて行くと言う事は。
愈々親切になって行くと、いよいよ親切にならなければならない、いよいよ寛大にならなければいけない、どんなに例えば此処に人情柄家柄が良かっても人筋が良かっても、おかげに繋がらなかったらだめなんです。昨日お道の新聞、教徒新聞、金光教徒新聞が参りました、その中に或る先生の記事が出ておりましたが、いわゆる何と言いますかね、貧乏礼賛、宗教者は貧乏である事が本当の様に書いてある、最後まで初めの間はですね、本当に尊い事だなあと思うた。
子供さんなんか千人に一人と言う様な病気で亡くなられた、その時にその当時昔の事ですね。お金が三円しか無かった、お棺を買う金がないから二円で板を買って来たば板を、もう削りもなんもせんなりに、子供の小さいお棺を作ってその上から紙を張って、それに納めてそしてその子のお爺さんに当たる方のお墓ば自分で掘り起こして、石碑をのかしてそしてそれを掘り起して、もう二十年前に亡くなっておられる、お爺さんの白骨になっておられるそこに子供さんを納める、そして後のこった一円で何とかと言う。
そう言うそれこそ赤貧洗うが如しと言う貧乏しておられる、そしてこの大宗教家と言う人達は皆んな貧乏であったと言う、だから現在もやっぱり貧乏しとられる模様である、私は始めの間は誰でも修行中の時には本当に尊いです、貧乏という難儀と言うのは尊いです。けれどもその難儀な所を通らせて頂いたおかげで、今日では何不自由もせんで済むおかげを頂いたと、言うのでなかったら誰もその宗教には付いちゃ行けないと思うです、是を読むと初めの中端頃まではね。
本当に読みながら感動するごたる、貧乏しとられる様子が書いておられますから、所が最後まで貧乏しとられる、所をですねしかもその貧乏がその貧乏でなからにゃいけんごと言うている。昨日もある結婚のばいしゃくにんをされる人が月次祭を終わって私の所へ来ましてから、まあそれこそ家柄人筋じゃないけれども、いろいろな初めてばいしゃくにんをするのでどう言う風にすれば良いか話合いをする時に見えた時に、この話しをさせて頂いた訳なんですけれども。
ビルマの坊さんの例をとって書いてあります、と言うのは自分では決して食べ物は作ったりしないそうなんですね、十人なら十人がずーと並んで托鉢をして廻られる、そして各家々からの食べ物をめぐんで頂くその日その日だから貰って歩かねばならない。それが宗教家の姿でありそれが尊いんだと言う、とこうで締めくくってある訳なんです。金光様の信心は、そんなものじゃない、しかも是は堂々と、堂々と言うがそれが教徒新聞に書いてある 出ておるのを見てから私は奇異な感じがした。
それこそ教祖様は子孫繁盛家繁盛をこそ願われるのである、それこそ、徳を受けて何不自由の無い生活にならせて頂く事こそ、天地の親神様の願われるであろうのに、貧乏するのはいけない事じゃない尊い事だと、その貧乏を通して様々の事が分かり、力を受け徳を受けてそして、そして人間の幸せの条件の全てを身につけて行くと言うのが、私は金光様の御信心だと言う風に、私は信じております。
ですからそう言うおかげを頂く為には、今日私が言う人情柄を、改めて行かねばおかげは受けられません、勿論私が今日言う、人情柄と言うのはおかげの受けられる人情柄を身に付けて行かなければ、是ならば絶対おかげが受けられる、今どう言う難儀をしとっても、今日私が皆さんに聞いて頂いておる所の、人情柄に改めて行くなら。それは例えば一番それを私共感じたのは、豊美が古川の家に縁に付きました時に、金光家の一門ではあるしまあどう言う例えば結婚にも、いろんなしきたりがあるとか。
いろんな言うならば教団の名門中の名門ですから、家あたりとは全然違ったあれだと思うとりましたが、本当に全然違っておった。昨日文男先生が来ました、本当にあそこに道具をもって行った時ばっかりはびっくりした、もうこちらから菊栄会の方達が何人かでもう途中は背広で行ったけれど、途中は旅館で服を着替えてね、もう向こうにちやんと御膳部どんが出来て、お神酒の一献も出て御挨拶の一つも出させて頂く積りで、行った所がもう膳部の準備もしちゃなかった。
だから例えばこう言う時にです、例えばもうそれだけででも、例えて言うならばなら色々の問題も起こるだろうけれども、それは岡山辺のしきたりであり、いやそれが金光家一門のしきたりであろう、所謂私の心がです、いうならば親切な心であると同時に、寛大な心で受けるからそれを聞いて、なら腹も立たなければ、それで事なしに済むのでです。だから如何に親切でなからねばならないか、寛大でなからねばならないかしかもそう言う心に、おかげがあるのです。
だから人情柄と言うのはです、それなら家柄人筋と言うたらいいです、所謂こう云う田舎の教会と金光家のしかも金光様と兄弟になると言う様な、家柄人筋のお家なのです。ですから普通から言うと、言うならば家柄人筋から言えば、問題になりそうですけれどもです、なるほど私共の考えとは、天地程に違うものを感じましたけれどもです、私の心の中にあるものは、親切な心と言うならば、寛大な心であります。
その親切な心と寛大な心そう言う人情柄を、だんだん信心によって、身に付けておったおかげで、一つも問題が起こらんのです。私は本当に例えば新たな親戚になる訳ですから、そう言う時にですね、例えばそう言う格式とか家柄とか言った様な事でです、家と家との間に問題が起こる様じゃ、成程一生貧乏しなければならない、代々貧乏せんならんと思いますね、元はいくら良かったっちゃ、元が元じゃからと言うて、なら格式ばっておったらかえっておかしい様な事、だから格式張るとかどう言う事でなくてです。
問題は人情柄を改めよと仰る。人情柄とはです、私は今日なら御神示頂きます様に、ある先生がそれこそ重箱のような真四角な下駄を履いて歩きよんなさるけど下駄と下駄が引っ掛って歩きにくうあんなさると言う感じ、成程その先生は何時も貧乏しとんなさいます、私が知っておる方なんです、それは素晴らしいお話もされます言うならば教団切ってのやり手の先生でもあります、けれども言うならば、言うならばこの新聞で言うならばです、言うならば尊い宗教家になるかも知れません、そんな事じゃ決してない。
夕べの、月次祭の時に申しましたが、昨日、石垣の中野さんが見えられてから、勧善懲悪について質問がありました、魂の世界とか魂に付いてとか、まあ勧善懲悪と言った様な、是は成程勧善と言うのは、善を勤めると言う事、悪を懲らしめると言う事、言わば昔のお芝居なんかは、もう全部か勧善懲悪、悪人が栄える、栄えるけれども、必ず悪は最後には滅びてしまう、そして困っておった善人が、幸せをすると言った様な、そげなお芝居ばかりなんです。
そう言う一つの考え方と言うものが、お互いの心の中にありますからね、だからいくら勧善をしてもです、それがねおかげに繋がらない様な勧善では駄目だと、だから私どもが言う例えば善とか悪ととか言うけれども、本当はお道の例えば信心だから合楽でも御理解を頂いて、見て始めて今迄善と思うておった事は悪であった、悪と思うておった事はそげな悪ではないと言った様な事が、そうですだからちっとばっかり人間が出来たと言うごたるとは、かえって信心が出来ませんでしょうが。
私は悪い事はせんけんでちゅう、言うなら信心の優等生では面白味がないと言う二三日の御理解、それは信心の本当の優等生は悪かろう筈はないですけれども、そう言う様な道徳的な意味の事を言ったんじゃないでしょう、あぁあっちゃなかなか人物か善いから、人物が出来ちゃるから、信心する前から人間が出来ちゃる、だからそげんとはそげんとは味合いが無い、おかげを頂き切らん本当の信心に打ち込み切らん。例えば私共の様に自分ながら、なんと浅ましい自分であろうかと、分からせて頂く所から。
縋らなければ居られん、願わなければおられん人が人辺(にんべん)なら私はぎょう人辺と言う様な生き方で、来たおかげで今日私は助かっている。おかげを頂いておる、今日の合楽がある。私が例えば人物が善かったり、なかなか人格があったりしとったら、今日の合楽は生まれていない、そう言う意味だと思うですね。信心の優等生は詰らん、だからそう言う信心と道徳と言うのは全然違うです。信心の道と言うのは超道徳です、道徳の道を一つ越えたものです。でなからなければ、只道徳家だけではですね。
所謂清貧にあまんずると言う是はもう相場が決まっている、人格者であれば有る程に、言うなら清貧に甘んじて一生を終わっている、そう言う生活が尊いと言う事がです、この新聞に書いてあるおかしな話だと思う、そこで私ども自身がです、本当に詰らない私であり本当にだらしない私、それが信心によって段々しやんとして来る、おかげを頂いて愈々信心の深さ広さに触れて行く事が出来る。人間も言うならば、人情柄と言うものが心情における所の人情柄が生まれて来る。
段々神心、言うならば人情が強うなってそれを例えば親切。普通で言う親切ではない信心で言う親切は、だから大体その親切と寛大と言う事をもっと詳しく、聞いて頂きたいけれども、何時も私が皆さんに申しておる事ですから、今日はそこを省きます。だから信心による親切、信心によって心が広くなる、寛大になる、昨日一昨日あたりの御理解を頂いて下さると、そこら辺りは良く分かるでしょう。
ですから今日は愈々人情柄を改めると言う事は、愈々親切になって行っておるかどうか。信心で言うですよ道徳的な親切じゃないです、又は信心で言う寛大広い心です、そう言う寛大な心、それを人情柄だと言う風に今日は聞いて頂いた。だからそう言う風に人情柄が、段々出来て参りますとです、私は古川の事を例に取って申しましたがです、私共の考えと天地程違う様な、言うならばそれがあちらの流儀だといやあそれ迄ですけれども、それがあちらのしきたりなら仕方がないと言うのじゃなくてです。
私の心の中に何時も親切がある、私の心は何時もそれを寛大に自分の心の中で泳がせる事が出来る。だからひとっつも古川と、大坪の間に問題が起こらない、普通から言うたら問題が起こる、言うならそう言う様な所の相違がです。起こらなければならない様な事が何か、何時も何回もありました、けれどもこちらが寛大であるのでおかげを頂く、こちらが親切な思いでするから、それがおかげに私の場合は。
それがおかげに繋がっておる。だからあぁあちらは仲々の人情家で。あちらは仲々の道徳家だと言うて、一生例えば貧乏しとらなければならない、言うならば清貧に甘んじとらなければならない、ならばと言う様な物ではないと言う事、金光様の信心で言う人情は、おかげに繋がる所の人情でなからなければいかん。それを今日は親切な心、同時に寛大な心の、私が言う所の信心でうまれて来る。
信心で鍛えられる所の、寛大さであり親切である、それを私は改めて行くと言う事が、愈々そこを深めて行くと言う事が、お道の信心でもある訳です、お互い人情柄を改めて行かんといけません。昔分限者等と言われる所の人は、必ず家柄人筋、今こそあの人達があげんしちょるばってか、うちへんとは筋がちがう、と言う様な考え方はもう絶対におかげは受けられない。
人情柄か変わって行かん限り、親切が寛大な心が育って行きよらんから、どうぞ一つおかげを頂かねばなりません。是は私の言うなら嫁の里の場合でも同じ事、所謂あちらはお鮨屋さん言うならば水商売、そうすると言うならば宗教家と縁です、ですからその考え方が違うです全然、しきたりも違うですけれどもです、一っつも問題がない問題が起こらないそう言う私はおかげに繋がる、人情柄と言うものを愈々改めて行かねばならぬ、作って行かねばならんと思うね。
どうぞ。